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東京地方裁判所 昭和52年(ワ)2557号 判決 1983年2月17日

原告

桒名栄治

右訴訟代理人

高野洋一

被告

鈴木和夫

右訴訟代理人

井波理朗

服部訓子

主文

一  被告は、原告に対し、金八〇万円及びこれに対する昭和五一年八月六日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は、これを五分し、その四を原告の負担とし、その余を被告の負担とする。

四  この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告に対し、金七四六万四三一〇円及びこれに対する昭和五一年八月六日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

3  仮執行免脱宣言

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

(一) 原告は、昭和二六年五月一〇日、訴外亡桒名君江夫婦と養子縁組をし、同女の養子となつた。

(二) 被告は、内科医師で肩書地において鈴木病院を経営していた。

2  診療の経過

(一) 訴外亡桒名君江(以下君江という。)は、鈴木病院で行なわれた健康診断により肺結核の診断を受け、昭和五〇年五月六日から同病院に入院し主治医である被告の診療を受けていた。

(二) 被告は、君江から昭和五一年一月ころから、喉のむせび、声嗄れ、さらには、頸部の付け根に腫れ物ができて食物の嚥下が困難である旨の異常を訴えられ、しかも、同女の同時期におけるレントゲン写真からもその原因が食道癌であると診断できたのにもかかわらず、単なる風邪、または、扁桃腺と誤診し、ルゴール液を塗るだけの治療しか行わなかつたため、君江の症状は日毎に悪化し、同年四月初旬ころには、頸部の腫れはますます大きくなり、その内部には固い部分が触知され、さらに、呼吸にも苦痛をおぼえ、食事も流動食しかとれない状態となつた。それにもかかわらず、被告は、同月一四日、同女を退院させて通院治療に切り換えた。

(三) 君江は、右退院後の同年五月一三日被告の病院に診察を求めて来院した際にも、被告に喉が重苦しい、声が嗄れる旨を訴え、被告において同女の前頸部から鎖骨上窩にかけて小鶏卵大の腫瘤ができていることを覚知したが、これを甲状腺腫によるものと速断し、甲状腺スキャンによる精密検査を受けるため一か月後の六月一四日に訴外千葉労災病院へ行くように同女に指示した。

(四) ところが、五月下旬、原告は、君江の症状が著しく悪化し、飲んだお茶さえ、もどすようになつたため、同女を訴外萩野耳鼻咽喉科医院に連れて行き診察を受けさせたところ、同医院において訴外日本大学板橋病院(以下日大病院という。)にて診察を受けるよう指示を受けた。そこで、同女は、同年六月二日ころ日大病院の診療を受け、ただちに入院したが、既に食道癌のため手遅れの状態となつており治療の甲斐なく、同年八月六日同病院において死亡するに至つた。

3  被告の責任

被告は、君江の診察にあたつていた医師として、同女の容態に注意を払い、同女から体の異常を訴えられたときはすみやかにその原因を究明し、それに応じた適切な医療措置を施すべき注意義務があるのに、同女から前記のとおりの異常を訴えられ、また、同女の右頸部には一見して明らかな腫瘍が存在し、さらに、入院中に撮影された同女の胸部レントゲン写真からも異常を疑うべき箇所が見受けられたのであるから、被告においても医師としての右義務を尽してその原因究明にあたつていたならば、その原因疾患が食道癌であることを容易に発見できた。それにもかかわらず、被告は、その原因を風邪ないし扁桃腺あるいは甲状腺の異常によるものと誤診し、同女に対して適切な医療措置を施すことなく、ただ漫然と無為の日々を過ごさせ、同女に効果的な治療を受けさせる機会を失わしめ、よつて、同女を食道癌により死に至らしめた。

仮に、当時既に、君江の死亡原因となつた食道癌を根治することが不可能な状態であつたとしても、君江の延命のための姑息治療は可能であり、被告は、君江の訴え等に基いて、前記癌の病巣を発見し、これに対する適切な姑息治療をなすことが可能であつたにもかかわらず、これを怠り、その結果、同女に延命の利益を失わしめたものである。

以上のとおり、被告の誤診行為は君江に対し不法行為を構成するから、被告は加害者として君江に対し損害賠償責任を負わなければならない。

4  因果関係

癌の治療には、早期の発見による早期治療が必要であり、治ゆが困難と言われる食道癌であつても、早期に発見して適切な治療措置を講じることにより、治ゆさせることは可能であり、仮に、君江が前記食道癌によつて死亡することを回避できなかつたとしても、被告の右過失によつて君江としては延命のために有効かつ適切な治療を受ける機会を喪失せしめられ、その結果として、相当期間死期を早められた。

従つて、被告の不法行為と君江の死亡ないしは死の早期到来との間には相当困果関係がある。

5  損害

(一) 君江の損害

(1) 君江は、大正四年六月一〇日生まれで、死亡当時満六一歳であつた。まだかなりの余命を有していたのであるから死亡による精神的苦痛は絶大であり、仮に、死の結果を免れることができなかつたとしても、被告の誤診、怠慢による適切な治療を受けられず、その結果、相当期間の延命の利益を失い甚大な精神的苦痛を被つた。

従つて、同女の精神的苦痛を慰藉するには金四五〇万円が相当である。

(2) 原告は、君江の子として、同女の慰藉料請求権を相続した。

(二) 原告の損害

(1) 原告は、君江の子として、同女の死亡ないしは死期の早期到来によつて多大な精神的苦痛を被つたが、これを慰藉するには金一五〇万円が相当である。

(2) 原告は、君江の日大病院における入院治療費として、金一六〇万四一三〇円を支払つた。

この治療費の支出は被告の誤診により必要となつたのであるから、被告の不法行為と相当因果関係のある損害である。

(3) 原告は、君江の葬儀費用として金四〇万円を支払つた。

よつて、原告は、被告に対し、不法行為に基づく損害賠償として、金七四六万四三一〇円及びこれに対する不法行為による損害の発生した日である昭和五一年八月六日から支払ずみまで、民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の(一)の事実は知らないが、同(二)の事実を認める。

2  同2の(一)の事実を認める。

同(二)の事実のうち、被告が昭和五一年四月一四日に君江を退院させて通院治療に切換えたことはこれを認めるが、その余の事実は否認する。鈴木病院ではルゴール液は全く備えていないから君江の咽喉治療にルゴール液を使うことはあり得ない。また、君江は、鈴木病院を退院するまで、同病院の提供した普通食を摂取していたばかりか、自ら魚、パン等を買い求めて食べていた。

同(三)の事実のうち、君江が被告に昭和五一年五月一三日、嚥下困難を主訴したことを否認し、その余は認める。なお、君江の頸部腫瘍は、右同日、君江からの主訴で初めて被告において覚知したものであるが、その大きさは小鶏卵大とはいうものの、内部は液状のもので弾力性があり、触知してはじめてその存在を認識することが可能なもので、外部から一見しただけではその存在を認識することすらできない程度のものであつた。

同(四)の事実のうち、君江が日大病院において治療を受けたこと及び同年八月六日食道癌により死亡したことは認めるが、その余は知らない。なお、同女が食道癌に侵されていたことは、死後の病理解剖によつてはじめて判明したものである。

3  同3の事実は否認し、その主張は争う。

4  同4の事実は否認し、その主張は争う。

5  同5の(一)の(1)の事実のうち、君江が死亡当時満六一歳であつたことは認めるが、その余は否認する。

同一の(2)の事実は知らない。

同(二)の(1)の主張は争う。

同(二)の(2)及び(3)の事実は知らない。

三  被告の主張

1  被告の措置の正当性

(一)(君江の入院中及び退院後の昭和五一年五月一二日までの事情)

(1) 君江は鈴木病院において、結核のため昭和五一年四月一四日まで入院療養し、退院後も同月二八日、翌五月一一日の二度通院診療を受けたがその間、担当医である被告に対し、嗄声、嚥下障害、呼吸困難、頸部の腫瘍等の症状を訴えたことはなかつた。もし、君江からそのような訴えがあれば被告としても通常、胃臓X線検査、食道造影、内視鏡検査、生検等の精密検査を行つたものである。君江からそのような症状の主訴がないのに被告が君江の食道癌を疑つて右の如き精密検査を行う必要性及び義務はない。

(2) 鈴木病院では、五名の医師により君江のレントゲン写真をみて症例検討会を行つており、また、保健所の医師も独自の立場から君江のレントゲン写真を見ていたが、誰一人としてその写真の中に食道癌の疑いをいだかせるような箇所を指摘、発見した者はいなかつた。

(二)(同年五月一三日における被告の処置)

君江が、当日被告に対してなした主訴は、軽度の嗄声であること(当日は声に嗄れたところはなかつた。)と頸部に突出したやわらかい腫瘍のあることのみであつて、嚥下困難、呼吸困難という症状の訴えがなかつたため、被告としては、君江の体内に、一刻を争う緊急性のある食道癌が発生していたことを全く予想できず、その原因として、まず甲状腺を疑い、とりあえずその方向で診療を進め、君江の症状の変化によつてはさらに生検等の検査方法を採用して多角的に原因の解明にあたることにして、直ちに千葉労災病院に対し、甲状腺の異常部位を探るのに最も効果的である甲状腺スキャンによる精密検査を依頼した。

なるほど、君江の症状を前にした場合、医師のとるべき診療方針としては二つのものが考えられ、ひとつは被告が行つた右の如き方法であり、他のひとつは、そのような症状を伴う可能性のあるあらゆる疾患の存在を疑い、その発見に向けてあらゆる精密検査を即時に敢行する方法である。しかし、そのうちいずれの方法を採用するかは医師の裁量に属する問題というべきである。けだし、第一に、医学上の検査も、それ自体患者の身体に対する重大な侵襲行為であるから、出来得る限り避けることが要請され、当初からあらゆる可能性を考えて検査を行つた場合、患者は、いわゆる「検査浸け」となり逆の意味で人権侵害となるおそれがあり、このことは出血や癌細胞播腫の合併症を伴いがちな生検において特に顕著である。第二に、君江の場合、結核に対する治療費は無料であつたが、その他の疾患の診療は有料となつており、当初からすべてにわたつて検査を行うことは、必ずしも裕福とはいえない君江に徒に多額の出費の負担を強いることとなり、医師として果して正しい措置といえるのかという疑問がある。

(三)(食道癌早期発見の困難性)

一般的に言つても、食道癌の早期発見は非常に困難であり、被告が君江の食道癌を発見できなかつたからといつて、被告の診断に過失があるとすることは現代医学の水準からみて不当である。

2  因果関係

(一) 日大病院では食道癌が進行していた昭和五一年六月一二日に、君江に対し食道造影を行つたが、食道癌を発見することが出来ず、死亡後の病理解剖によつてはじめて君江の各症状の原因が食道癌によるものであつたことを知り得たものであり、従つて、仮に、被告が君江に対し、被告の診療を受けていた段階において食道造影等の検査を行つていても君江の食道癌を発見することは不可能であつた。

(二) 君江の嗄声は、食道癌から直接生じたものではなく、その転移癌が声帯の神経を圧迫した結果生じたものであるから、仮に、被告が君江の右主訴を受けた昭和五一年五月一三日の診察に際して、直ちに生検、食道造影、内視鏡検査等の諸検査を行い、その結果、君江の右食道癌を発見していたとしても、既に癌は早期発見の段階をすぎていて手術による根治は不可能な状態で死は免れないところであり、また、放射線治療をなしてもその段階では十分な延命効果すら期待し得なかつた。

従つて、被告の所為に不手際があつたとしても、君江の死亡との間には相当因果関係がない。

第三  証拠<省略>

理由

一請求原因1(一)の事実は<証拠>によればこれを認めることができ、また、同(二)の事実は当事者間に争いがない。

二同2の事実(診療の経過)について検討する。

1  まず、同2の事実のうち次の事実、すなわち、君江が被告の経営する鈴木病院で行われた健康診断で肺結核の診断を受け、昭和五〇年五月六日、被告病院に入院し、同日以降被告が主治医として同女の診療に当たつたこと、同女は約一年後の翌五一年四月一四日、被告病院を退院し、以後被告病院に通院することとなつたが、同年五月一三日に通院した際診察にあたつた被告に対し、軽度の嗄声と喉が重苦しい旨訴え、被告において触診の結果、同女の頸部に腫瘍ができていることを覚知したが、それらの症状は、甲状腺腫によるものではないかと考え、その精密検査のため一か月後の六月一四日に千葉労災病院で甲状腺スキャンの検査を受けるよう君江に指示したこと、同女は同月初旬頃日大病院に入院して治療を受けたが、同年八月六日同病院において食道癌のため死亡するに至つたことは、いずれも当事者間に争いがない。

2  次に、<証拠>並びに検証及び鑑定の結果によると、次の事実を認めることができる。

(一)  君江は結核の治療のため昭和五〇年五月六日に被告病院に入院したが、入院中の翌昭和五一年二月頃から声が嗄れ始め、続いて喉が腫れて咳が出始め、さらに食事の際にはつかえを覚えるようになり、同年三月ころからは右頸部に腫瘍ができはじめたが、嗄声等の各症状は継続的に発現していたわけではなく、時折出るというだけで、その程度も軽く、食事も普通食をとり、頸部の腫瘍もそれ程大きなものではないため、同女において主治医である被告に嗄声や、右腫瘍の存在を訴えたり、また、これに対する治療を求めたりすることもせず、同四月一四日に結核が治癒(結核病巣の安定)したとの診断のもとに被告病院を退院し、爾後は通院治療を受けることになつたこと、

(二)  君江は、退院後、同月二八日と翌五月一一日被告病院に通院して被告の診療を受けたが、その際、特段の訴はなさなかつたが、そのわずか二日後の五月一三日に被告病院に通院した時に、被告に対し、はじめて声嗄れて喉が痛い、右の首から肩にかけて重苦しい感じがする旨を訴えたので、被告が同女の頸部を触診したところ、小鶏卵大の嚢腫状腫瘍があり、なかには液体が貯溜しているように波動を覚知したが、一部には硬いところもあつたこと、

(三)  そこで、被告は右症状はこれを伴うことの多い悪急性甲状腺炎ないしは橋本氏病等の甲状腺腫ではないかと診断したが、甲状腺腫にも悪性腫瘍があり、また君江の前記嚢腫状腫瘍にも、一部固い部分があつたので、同女の該腫瘍が悪性のものであるか否かを判別し、同女の治療方針を決定するためには、右腫瘍の固い部分を生検によつてとり出し、病理組織診断をする必要があると考え、同病院の副院長で外科担当の訴外山本邦雄医師(以下山本医師という。)に対し、君江の右所見と、病理組織検査をやつた方が良い旨の意見を述べて、同女の右症状に対する診察並びに検査方法の選択、実施を依頼したこと、

(四)  外科担当の山本医師は、改めて、君江の診察を行なつたが、その際、同女から、直接に、自覚症状として、右の首から肩にかけて重苦しい感じがする。時々声が嗄れる旨の訴を聞き、更に、同女の右前頸部に小鶏卵大の嚢腫状の円型の腫瘤のあることを触知したが、被告の覚知していた前記固い部分については気がつかず、被告の所見と同じく甲状腺腫が右各症状の原因疾患であるとの疑いを持ち、直ちに、その疾患部位並びに種類を確認する目的で、甲状腺の機能状況を探る肝機能検査、BMR基礎代謝検査、橋本氏病特有の蛋白分画によるガンマグロブリンの上昇の有無を探る蛋白分画検査を行なつて、それぞれ異常のないことを確認し、さらに、甲状腺癌の有無及び位置を調査するため甲状腺スキャンによる検査を訴外千葉労災病院に依頼して同病院から一カ月後の六月一四日の検査予約をとつたが、しかし、山本医師は、悪性の未分化ガンの場合は、症状として嗄声になることの多いことを認識してはいたが、君江の前記腫瘍は頻度的に一番多い良性の結節性甲状腺腫であろうと診断したため、その際、同女の嗄声については特段の注意を払うことなく、生検による病理組織検査や、胸部レントゲン撮影、内視鏡による検査は全く行なわなかつたこと、

(五)  そして、山本医師は、被告に対し、前記肝機能検査、甲状腺機能検査の実施、甲状腺スキャンによる検査の電話予約をしたことを報告したが、その際、被告は自ら想定していた君江の前記腫瘍の生検による病理組織検査を山本医師が行なわなかつたことについて、特段の意見または指示を同医師に与えなかつたこと、

(六)  君江は、被告病院に通院した右五月一三日後、病状が急速に悪化しはじめ、咳嗽、嗄声のほか呼吸障害、嚥下障害等の症状が漸時顕著となり、頸部腫瘤も次第に膨隆してきたため、原告は同月三一日君江を自宅近くの萩野耳鼻咽喉科医院につれていき診療を受けさせたところ、同医院から日大病院を紹介され、翌六月九日君江は日大病院気管食道科で診察を受け、更に同科から同病院胸部外科の外来に回され、六月一一日同病院に入院するに至つたこと、

(七)  右入院時の君江の症状は、視診上、前頸部が膨隆し、胸部レントゲン撮影の結果、右上縦隔に腫瘤状陰影が認められ、気管が左方に圧排されて狭小化し、呼吸困難、嚥下障害、咳嗽等の症状が存し、同女を診察した日大病院の医師は右のような各症状から、その原因が癌等の悪性腫瘍によるものと予測したこと、

(八)  入院の翌一二日、同病院において君江の食道造影が行なわれ、食道の中央部、胸部食道やや下方よりの部分に辺縁不整像が認められる外に、上部食道にも右前方から圧迫されたような所見の認められる箇所が存し、同病院の医師の中には食道癌ではないかという意見を寄せるものもあつたが、君江の呼吸困難が更に顕著に増強し、窒息のおそれが生じたため、食道鏡検査により君江の食道内の検索を行わなかつたこと、

(九)  そしてその後、同病院で実施された君江の右鎖骨上窩前頸部腫瘤の生検、病理組織検査の結果、君江の右症状は扁平上皮癌によるものであり、原因疾患として、食道癌のほか、同癌の発生し易い肺癌の存在も疑われたが、同女の病状の急激な悪化のため、それを検索し確定することの出来ないまま、六月二八日同病院内の症例検討会において、同女の胸部から頸部にかけての動脈の圧迫も指摘され、血管まで巻きこまれている以上根こそぎ腫瘤を切除摘出する根治術を施すことはすでに困難であるとの結論に達し、さしあたつて、呼吸障害を軽減し、腫瘤の可能な限りの摘出を目的として、七月二日同女に対し縦隔内気管開窓術が施行されたが、君江は、右手術後、大静脈症候群が増強するとともに、頻脈が顕著となり、遂に八月六日死亡するに至つたこと

(一〇)  君江の死後、解剖が行われ、その結果、同女の食道中央部、胸部食道に癌腫瘤があり、それが傍食道リンパ節、後縦隔リンパ節、気管、気管支、リンパ節、気管周囲のリンパ節へと広がり、気管及び上大静脈の周囲に巨大な腫瘤を形成し、他方、声帯の反回神経を圧迫、浸潤して声帯助を麻痺させて嗄声を惹起し、更に、気管を圧迫して痰、咳、さらには呼吸困難を惹起し、付近の血管を巻き込んで圧迫を強め、頻脈及び血圧低下等の心不全的症状を起し、上大静脈症候群を併発させて君江を死亡させるに至つたことが認められたこと

<証拠判断略>

三(被告の責任に対する判断)

1  君江は結核のため鈴木病院に長期入院療養していた患者であり、被告は主治医としてその診療にあたつていたのであるから、被告は医師として同女の体調に十分気を配るとともに、同女の体に異変をおぼえて被告に訴え、あるいは同女を外部から観察して医学上不審な点を発見した場合には、その症状が結核以外の他の疾患に起因するものであつても医師としての専門的知識、経験を基礎として、その当時の医学水準に照らし、転医、転院を含む適切かつ十分な医療措置を選択、決定し、かつ施行する注意義務を負つていると解するのが相当である。

ところで、前記認定事実によると、君江が被告に対し嗄声、嚥下障害、頸部腫瘍の症状を訴えたのは、退院後の昭和五一年五月一三日の通院時であり、それまでに君江が被告に対しかかる症状を訴えたことは認められず、また、他に右期日までに君江が食道癌に罹患していたと考えられる徴憑も認められないから、右期日以前に、被告において、君江を食道癌に罹患していると疑わなかつたことにつき、医師として過失があつたとは到底考えられない。もつとも、被告が昭和五一年二月一七日撮影した君江の胸部のレントゲンフイルム(乙第三号証)に同女の縦隔部に陰影のあることが証人新野晃敏の証言によつて認められるが、それとて、<証拠>によると、右レントゲンフイルムのみで、その当時の状況から被告が君江の本件食道癌を発見できないことに医師として過失があるとは認められない。

しかしながら、被告は君江から、昭和五一年五月一三日に前記の症状を訴えられ、その場で、触診の結果、君江の右頸部の鎖骨上窩に小鶏卵大の腫瘍を覚知したことは前記認定事実により明らかであるが、<証拠>、鑑定の結果によると、かかる場合、担当医師としては、その原因疾患が単なる良性の甲状腺腫と推測するだけでなく、これらの症状を伴い易い食道癌、肺癌、頭頸部癌、縦隔悪性腫瘍等と考えて、一刻も早く、その原因疾患を発見し適切な治療を行うことによつて、君江の生命、身体に対する重大な危難を避けるべき義務があり、その方法としては、甲状腺腫のみを目的とした精密検査の外に、各部位のレントゲン撮影、各種造影術、内視鏡検査、生検等の検査も併せて実施し、特に、本件については、被告において君江の嚢腫状腫瘍を触知しているのであるから、悪性腫瘍若しくは悪性腫瘍の淋巴節転移を想定し、速みやかに、穿刺して、内容物をとり、細胞診を行うか、外科的に腫瘍の一部をとつて組織学的検索によつて診断し、その結果それが扁平上皮癌であることが、判明した時には、更に、原疾患の検索をしぼつてその癌のでき易い肺、食道、口腔、咽喉等のレントゲン検査、内視鏡検査を行うべきであり、若し、被告病院でこれらの検査ができないとすれば他の病院に転院させて検査すべきであつたのに、被告は、前記認定事実によると、君江につき生検及び病理組織診断が必要であると考えていたのに、自己が指示した山本医師が甲状腺に関する検査のみ行い、また、甲状腺スキャンによる検査は千葉労災病院に依頼したが、それが一ケ月後に行われるとの報告を受けていながら、君江に対しそれ以上の何等の措置も講じなかつたのであるから、この点につき被告に診察上の過失があつたといわざるをえない。

2  被告は、被告の君江に対してとつた措置が医師の裁量の範囲内であり過失は存しない旨主張するが、医療の特質からみて診療にあたる医師の裁量を否定するものではないが、患者の特定の症状から医師として当然なすべき措置を省略したり、後まわしにして、時期を失し患者に対する生命、身体に危険を与えたとすれば、その裁量範囲を逸脱したといわざるをえず、前記認定事実からは、被告の措置は医師として診療上の裁量の範囲を逸脱したといわざるをえないから、被告の右主張は採用しない。

また、被告は、生検は癌細胞播腫を伴う危険があるから被告がこれを行わなかつたことに過失がなく、また、患者に対する総ての検査を要求することは患者を検査漬けとし、しかも、患者に多額の出費を強いることとなるからこれを行わなかつたことに過失がないと主張するが、<証拠>によると、過去の生検には確かに、被告主張のような危険があつたが、本件の当時においては、そのような危険性のない、しかも、容易な生検方法があつたことを認めることができるし、また、前記認定事実によると、君江は、嗄声、嚥下障害を訴え、君江の右頸部の鎖骨上窩に小鶏卵大の腫瘍があつたのであるから、担当医師としては、速みやかに右腫瘍の生検とその病理組織的検査を行うべき義務の存することは既に述べたとおりであり、それ以外の検査を義務として要求するものではないし、しかも、右検査にそれ程多額の費用がかかるとは考えられないし、仮に要したとしても、必要な出費であり、これを要求したからといつて、患者を検査漬けにしたとの批判はあたらないから、被告のいずれの主張も採用し難い。

さらに、被告は、被告が食道癌を発見できなかつたことは現代医学の水準からみて被告に過失はないと主張するが、確かに、<証拠>によると、現代医学をもつてしても、根治可能な早期の段階で食道癌を発見することは極めて困難であることを認めうるが、前記認定どおりの君江の症状と所見が存する限り、鑑定の結果によると、該腫瘍の生検、細胞診、組織診さえすれば同女の腫瘍が扁平上皮癌であることは容易に判明でき(ちなみに、前掲乙第一九号証では、生検、細胞診によると、生検で九一パーセント、細胞診で54.5パーセント、両検査を同時に併用すれば九五パーセントの確診率となることが認められる。)、これにレントゲン検査、内視鏡検査による右癌のでき易い食道、口腔の精査により君江の原疾患が食道癌であるとの診断も困難でなかつたと認められるから、この点に関する被告の右主張も採用し難い。

四(因果関係に対する判断)

1  <証拠>及び鑑定の結果によると、被告が医師としての義務を尽して昭和五一年五月一三日直後に前記した各種精密検査を君江に実施し、もしくは、この検査のため転院の処置を講じていたならば、その一週間以内には君江の原疾患として上縦隔の大腫瘤を、遅くとも三週間以内には、これが本件食道癌であることを発見することが可能であつたと認めることができる。なお、被告は、本件食道癌が管外性を持ち食道内部には目立つた痕跡がなかつたから、仮に、被告において当時精密検査を行なつたとしても君江の食道癌を発見することは不可能であり、現に日大病院でも死後の解剖によりはじめて発見した旨反論するが、日大病院において君江の生前に食道癌を発見し得なかつたのは、入院当時の君江の状態からして体力的に耐えられない検査(例内視鏡検査)があつたうえ、君江は極めて危険な呼吸困難という状態に陥つていたため、日大病院の医師としては、同女の生命救助のため已むなくその対症療法を優先させたもので、同女の健康状態が日大病院入院直後と較べてはるかに良好であつた被告の前記診療時である昭和五一年五月一三日当時についても同様に解することはできない。

しかし、<証拠>及び鑑定の結果によると、君江の食道癌は昭和五一年五月一三日ころには、既に君江の生命にとつてのつぴきならない段階にまで進行しており、仮に、被告がこの段階で君江の食道癌を発見していたとしても、根治のための唯一の方法である手術による癌の切除は不可能であり、君江が早晩本件食道癌による死を免れ得なかつたことを認めることができるから、被告の前記診療上の過失と君江の食道癌による死亡との間に困果関係が存すると判断することはできない。

してみると、原告主張の損害のうち、君江の死亡を原因とする慰謝料及び葬儀費用の各請求は、その余の点を判断するまでもなくいずれも理由がない。

2  ところで、いつたんこの世に生命を享けて誕生したからには、一日でも長く生きていたいというのは人間の本質に根ざす根源的欲求であつて、これは法的保護に値する利益というべきであるから、疾患の進展、拡大によりいずれにせよ死の結果は免れなかつたとしても、医師の診療上の不手際により、当時の医学水準に即応した適切な処置を受け得た場合と較べて相当期間死期が早められたときには、患者は右利益の侵害を理由として、当該医師に対し慰謝料を請求することができると解するのが相当である。

そこで、被告の診療上の過失が君江の死を早めたかどうかを考えるに、<証拠>及び鑑定の結果によると、君江の癌が、前記認定のとおり、昭和五一年五月一三日から三週間以内である同年六月初旬ころまでに遅滞なく発見されていたならば、その対症療法の一環として効果のある放射線照射がその段階で行なわれ、その結果として君江の死亡時期が実際の死亡時期より数か月は遅れたものと認めることができる。

従つて、君江の死の結果は避け得なかつたものの、被告の過失と君江の死の早期到来、すなわち延命利益の喪失との間には相当因果関係があると判断することができる。

五(損害に対する判断)

(一)  君江について発生した慰謝料請求権の額を検討するに、被告の過失の態様、程度、その時までに形成されていた被告、君江間の医師と患者としての信頼関係、喪失せられた生命の期間、同女の死亡時の年齢(六一歳であつたことは当事者間に争いがない)等諸般の事情を考慮すると、同女の精神的苦痛は金八〇万円をもつて慰謝するのが相当であると判断することができる。

また、原告が君江の養子であることは前記一で認定したところであり、<証拠>によると、君江には他に相続人がないことが認められるから、原告が君江の唯一の相続人として同女の右慰謝料請求権を全額相続したことを認めることができる。

(二)  ところで、原告は、原告固有の慰謝料請求権の存在を主張してその支払を求めるが、説示したとおり被告は君江の死亡について責任はなく、また被告の過失は右認定期間程度の延命利益の侵害にとどまるのであるからこれを生命侵害があつた場合と同視することは出来ず、従つて、原告独自の慰謝料請求は認められない。

また、原告は、君江の治療のため日大病院に支払つた治療費もその損害として賠償を請求するが、しかし、仮に、被告に治療上の過失がなく、昭和五一年六月初旬に同女の食道癌が発見されていた場合であつても、日大病院が行なつた治療内容はいずれにせよ君江の死亡時までとり行なわれたであろう姑息治療の一部であるから、日大病院に支払われたと同額程度の治療費の支出は、被告の過失の有無にかかわらずこれを免れ得ないところであつたと推認される。してみると、被告の過失と日大病院における治療費の支出との間には相当因果関係があると判断することはできないから、原告の治療費の支出に基づく損害賠償の請求は理由がない。

第三結論

以上の次第で、原告の本訴請求は、金八〇万円の慰謝料及びこれに対する本件不法行為による損害の発生した日である昭和五一年八月六日から支払ずみに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度において理由があるからこれを認容し、その余は失当であるからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条本文を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項を、それぞれ適用し、仮執行免脱宣言については相当ではないからこれを却下して、主文のとおり判決する。

(山口和男 笠原嘉人 野村直之)

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